西日本新聞 2008年4月11日 掲載分



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春、大隅半島の午前六時はまだ薄暗い。福ヶ崎春香(九三)は、十日朝も体操をした。 鹿児島県鹿屋市串良町の柳谷集落。地元の呼び方で「やねだん」という。集落最年長の好々爺は、女優森光子(八七)がテレビでしてみせていた屈伸運動を繰り返す。彼女が舞台でのでんぐり返しを封印してからも、福ヶ崎はバイクにも自転車にも乗る。 体操の後は、菜の花が咲く道を歩いて畑へ。近くには集落のみんなで耕しているサツマイモ畑もある。五月の植え付けが待ち遠しい。秋に収穫し地元の焼酎メーカーで醸造。芋焼酎「やねだん」はこの五年で、全国から注文が届く人気銘柄となった。 焼酎販売などで集落の余剰金は二年前、四百九十八万円に達した。約百十世帯すべてに一万円のボーナスが支給された。 あの日、やねだんの公民館長、豊重哲郎(六七)は住民一人一人にボーナス袋を手渡した。率先してイモ植えに励んだ福ヶ崎には、こんな言葉を贈った。「あなたは集落の大切な機関車です」。会場がどっと沸いた。福々しい顔をしわくちゃにして福ヶ崎も笑った。自宅のたんすに今も、お札が入ったままのボーナス袋をしまい込んでいる。大好きなパチンコにも使わなかった。
集落にUターンする若手が現れ、赤ちゃんも生まれた。空き家は画家や陶芸家が移り住んでアトリエとなった。
やねだんは十数年前まで、過疎化の止まらぬ集落だった。 (敬称略)
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西日本新聞 2008年4月12日 掲載分


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やねだんで生まれた輪くん |
桜の花びらが舞う鹿児島県鹿屋市串良町の柳谷(やねだん)集落。公民館の隣の民家から、毎日のようにスパイスの香りが漂ってくる。
ガラス作家の河野静恵(三二)が台所でカレーを試作中だ。三十四ヶ国を旅した写真家の夫セイイチ(三九)は、昨夏生まれた長男を抱いて見守っている。
もうすぐ自宅の一部を使ってカレー料理店を始める。夫妻で巡った国々の料理店や家庭の台所で教わった味だ。
セイイチは静岡、静恵は富山の出身。友人からやねだんのことを聞いた。昨年二月に訪れると、子どもたちが元気にあいさつしてくれた。みんなで遊ぶ姿がほほ笑ましい。そこに自分たちの子どもが溶け込む姿を思い描いた。
妊娠五カ月の静恵を気遣って公民館長の豊重哲郎(六七)からは連日、夫妻の住む富山に電話があった。六月、やねだんに移ってきた。
夫妻はおなかの子を「りん」と呼んでいた。漢字は決めていない。「やっぱり凛かなあ」。出産シーンを写真に残したいセイイチは、カメラのレンズを丁寧に磨いた。
引っ越しして二週間たった早朝。静恵が腹の痛みを訴えた。予定日より一カ月早い。ただの腹痛だと夫妻は思った。豊重の妻絹子(六六)は「陣痛かもしれんよ」と言った。
痛みは次第に増した。豊重が駆け付け、手分けをして市内七つの産科医院に電話をかけたが、満床などを理由に受け入れを断られた。「頭が出てきそう」。静恵がうめいた。
救急車を呼ぼうとしたセイイチを豊重は制した。知人のいる産科医院へ車を走らせた。到着直後、分娩室から赤ちゃんの鳴き声が響いた。二二七六c。セイイチと豊重は、その場で抱き合い、泣いた。
セイイチが分娩室に呼ばれると、赤ちゃんを抱いた静恵が笑っていた。セイイチはポケットからカメラを取り出し、夢中で撮影した。出産シーンを撮れなかったことは忘れてしまっていた。
人と人とがつながり、結び合うことの大切さを知った夫妻。「りん」の響きに「輪」の字を当てた。
三カ月後。夕暮れ時の集落を住民みんなで散策する恒例行事があった。出発前、夫妻は輪をお披露目した。最年長の福ヶ崎春香(九三)が首が据わらない輪を抱いた。輪は泣いたが、福ヶ崎は笑った。集落で五年ぶりの子宝。「赤ちゃん、万歳!」小学生の新西元気(一〇)の音頭で、五十人は高らかに両手を上げた。
ファッションや広告の分野で活躍していたセイイチ。やねだんでは、お年寄りや子どもの顔を撮り続けている。最近、セイイチの元に写真プリンターが届いた。豊重が町内会予算で購入し、貸してくれた。三百人。集落全員の撮影が目標だ
輪を連れて集落を歩くと、お年寄りから声が掛かる。自宅には子どもたちが遊びに来る。セイイチがアジアや南米の国々で、よく目にした光景。この春、中学に上がった今村秀平に手渡される輪は子どもたちの腕の中を巡る。
「こどもの日」までにカレー料理店を開きたいと願っている夫妻。そのそばで、輪は口をへの字にして、つかまり立ちに挑んでいる。 (敬称略)
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西日本新聞 2008年4月13日 掲載分



自慢の焼酎「やねだん」のラベルには、生産に携わった集落の人たちの笑顔がプリントされている。 |
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狭い店の壁に大きな紙が張ってある。「やねだんの土着菌で育てたニワトリの卵です」。鹿児島県鹿屋市の中心街のある小料理店の人気は、ふわりとして甘い卵焼きだ。
「一番合う焼酎は、これよ」。おかみさんが差し出した一升瓶のラベルには、達筆で「やねだん」の文字。原料のサツマイモを収穫した同市串良町、柳谷(やねだん)集落の住民たちの写真をプリントしてある。
写真の右端で笑顔を見せる、やねだん公民館長の豊重哲郎(六七)は、集落にある焼酎の巨大モニュメントの前でしょっちゅう熱弁を振るっている。
地域再生の手法を探ろうと、各地から視察が相次いでいる。豊重は決まって、見学者にサツマイモ栽培でのこだわりを説く。「土着菌は、やねだんの土中に生息する細菌に米ぬかや砂糖を加え発酵させたもの。これを肥料に混ぜ、無農薬、無化学肥料で育てます。土着菌を家畜に食べさせると、ふん尿の匂いも減る」
手作りの商品にやねだんの名を付けて販売し、集落運営資金に当てる。豊重のアイデアに視察者はうなずく。豊重がやねだんブランド誕生までの「物語」を語り始めると、さらに目を輝かせる。
始まりはイチローだった。
豊重が自治会長について二年後の一九九八年。当時オリックスにいたスター選手は、集落の高校生たちの話題の中心だった。「東京ドームへイチローを見に行こう」。豊重は高校生に呼び掛けた。軍資金は自ら稼ぎ出す。耕してがおらず放置されていた畑三十eを無償で借り、サツマイモを植えた。高校生が施肥や草取りに戸惑っていると、見かねた大人たちが手伝いに集まった。畑はいつもにぎわった。
収穫の秋。サツマイモは三十三万円の収益を生み出した。東京行きには足りなかったが、高校生たちは福岡ドームでイチローのプレーを楽しんだ。
以来、サツマイモ栽培は住民総出の作業となる。栽培面積は一fに増えた。当初はでんぷん用に出荷していたが、五年前から業者に依頼し焼酎を造ると、収益は増えた。全世帯に一万円のボーナスが支給された。
視察者たちは土産に買った焼酎と一緒に、やねだん再生の物語を持ち帰っている。
久しぶりに吉留政夫(七八)の腕が鳴った。焼酎や、土着菌で育てたヤマイモを入れたみそを詰め合わせ、ギフトを販売することになった。それを納める木箱の注文が豊重から入ったのだ。
二十年ほど前は、農作業の傍ら、集落住民の依頼で牛舎を建てて回った。人が減るとともに大工仕事は減った。
木箱作りは、吉留には難しい作業ではない。それでも一日十個と決め、丁寧に仕上げた。包装用の風呂敷は、一人暮らしの有留フキ(七一)が寝る間を惜しんでミシンを踏んだ。やねだんブランドは住民総出の手作り。みんな得意分野で参加する。
焼酎「やねだん」は将来、幻の焼酎「魔王」「森伊蔵」にも並ぶ人気が出ると、愛好家の間で評判だ。
樋口一義(八三)は毎日欠かさず畑に出る。「健康の秘訣は、くよくよせんこと」。毎晩一合飲む焼酎が何よりの楽しみだ。お気に入りの銘柄は地元の定番「小鹿」。「やねだんは毎日飲むには、ちと高い」。誇らしげに言って、杯を重ねた。 (敬称略)
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西日本新聞 2008年4月14日 掲載分

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芋焼酎「やねだん」。その一升瓶をかたどったモニュメントが、市道から集落に入る目印になっている。
路地を曲がるとすぐ、しゃれた洋風の家がある。鹿屋市郊外から昨年Uターンした会社員、内倉政一郎(三三)が新築したマイホームだ。芝生の庭の物干しざおに洗濯物が揺れている。家族の衣類に交じってベビー服がある。三男の武寿は昨年七月に生まれた。
集落で五年ぶりの産声だった。三月三十日に開かれた年度末の集落の総会は、ボーナス支給をめぐって議論となった
集落で稼ぎ出した余剰金は計四百三十八万円。二年ぶりにボーナスを出すこともできるし、町内会費を無料にすることもできる。お役所から出る補助金と違い、自分たちで稼いだ蓄えは使い道を自由に決められる。
住民たちの選択は、そのどちらでもなかった。余剰金は足腰の弱ったお年寄りに手押し車を貸し出す新たな事業に充て、子どもたちの将来のために使おう。全会一致で決まった。
目を潤ませ、頭を下げる公民館長の豊重哲郎(六七)。最近、涙もろくなったと住民たちは言う。
豊重が館長に選ばれたのは一九九六年。人口減少に歯止めがかからず、集落は危機感を抱いていた。当時すでに住民の三分の一がお年寄り。十年後は五割に迫る計算だった。
その人口が昨年、増加に転じた。
昼下がり。絵描きの大窪顕子(二五)は、古い民家の庭先にいた。屋外にちゃぶ台を出し、鉛筆を走らせている。
大阪出身で、京都の美術短大を卒業後、石川県小松市で活躍。仲間から「おもろいムラがある」と聞き、昨年一月、やねだんにやって来た。
集落では、家主のいない空き家を月三万円で貸してくれる。ここで大窪は、石川時代から付き合っている石原啓行(三六)と絵を描く毎日。地元の子どもたちに絵を教えることもある。
トラクターに乗った樋口一義(八三)が畑から帰宅した。飼っている黒毛の雌牛は今春、子牛を二頭産んだ。
集落の公民館のガラス窓には、子牛の絵が張り出されている。大窪と石原に習っている子どもたちが描いた。二人に感化されたのか、ピカソみたいに個性的なタッチの絵もある。
公民館は寺子屋にもなる。小中学生はここで、地元の上小原中学校で数学教諭をしていた神田橋万聖(七七)に勉強を教わる。謝礼は集落の会計から補助している。
集落のそこかしこで、ホーホケキョとウグイスが鳴く。「ほんま上手になったわ。春先はホケ、ホケとしか鳴かへんかったのに」。鉛筆を休めて大窪が言う。雌牛、カエルの卵、色鮮やかなチョウ。やねだんで迎えた二度目の春を描いている。 (敬称略)
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西日本新聞 2008年4月15日 掲載分



かえるの卵を手に取る子どもたち。自然の中で、みんな一緒になって遊んでいる。 |
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咲き競う菜の花の間に、そろいの赤い帽子が見え隠れする。鹿児島県鹿屋市串良町、柳谷(やねだん)集落の午前七時。新学期が始まって、子どもたちは二`ほど離れた上小原小学校を目指す。
五年生になった今村奈々穂(一〇)が家から飛び出してきた。「行ってらっしゃい」「気を付けて」。沿道の大人たちが呼び掛ける。学期始めの「おはよう声掛け習慣」は、集落挙げて登校を見守る恒例行事だ。
奈々穂の横に、同級生の中尾龍太(一〇)が並んだ。三年の中間大輔(八つ)もついてくる。「大輔、忘れ物!」。六年の姉、美玖(一一)が追い掛けてきた。
春休みにみんなで遊んだわくわく運動遊園の前を過ぎた。少し行けば住民が寄り合う公民館。五月になればそこで、集落主催の課外授業「寺子屋」が始まる。子どもたちは放課後に集まり、勉強を見てもらう。
元教師の神田橋万聖(七七)は週二回、やねだんに通い、寺子屋で算数と数学を教えている。一九七六年から八年間、上小原中学校の教壇に立った。寺子屋で学ぶ二十一人の半数の親が、当時の教え子だ。孫を教えているような気持ちになる。
寺子屋が始まる前年の九九年、上小原中では生徒が集団で校長らに暴力を振るう事件が起きた。当事者にやねだんの子はいなかったが、集落は見守りのまなざしを強めることにした。「おはよう声掛け習慣」は、その一環。学校の授業を補う寺子屋の開設も、みんなで決めた。神田橋は子どもたちの面倒見のよさに感心した。寺子屋では違う学年の子が机を並べる。すぐに上の学年の子が下の学年の勉強を見るようになった。「下の子に教えれば、自分の頭も整理できる」。自然と神田橋の指導も熱を帯びた。
手作りの教材を神田橋は使う。厚紙を切って立体の模型を作り、体積の求め方を考えさせる。「速度」の問題でつまずく子には、外を歩かせて物の動きを体感させる。理論を頭で覚えるのではなく、体に染み込ませる指導。それは、考え込むよりまず実行、というやねだんの地域再生策にどこか似ている。
三月二十六日夜。会社員の内倉政一郎(三三)は妻由紀子(三二)が手作りしたケーキに等速を五本立てた。長男政由(五つ)の誕生日。次男大成(三つ)は元気よく「おめでとう」と言い、三男健寿(九カ月)も由紀子の腕の中で、手をたたいた。
内倉は昨春、鹿屋市郊外から生まれ故郷のやねだんに移り住んだ。健寿はそこで生まれた。
十数年ぶりに暮らすやねだんで、集落の子どもたちの活発さに驚いた。空き家を改装した「迎賓館」に移り住んだ芸術家の指導で、絵や陶芸に励む姿をよく見た。夕暮れどきに住民みんなで散策する行事では、高校生が小学生の手を引いていた。内倉の子ども時代にはなかった光景だ。
一番驚いたのは健寿に同級生がいたことだ。同じ時期、河野セイイチ(三九)静恵(三二)夫妻に長男輪が生まれた。集落にいた内倉の同級生四人全員、やねだんを離れたままだ。同世代との親交は期待していなかった。
「健寿は歩行器に入って、駆け回っていますよ」 「輪はもう少しでつかまり立ちできそうなんですが」内倉とセイイチが会うと、息子自慢が始まる。 (敬称略)
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西日本新聞 2008年4月16日 掲載分



集落で活動する芸術家たち |
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築百年の民家は竹林に囲まれている。いろりがある一室で大作に挑んでいるのは石原啓行(三六)。色あせたふすまをキャンバス代わりに、ぎょろりとした目玉の人物を描いている。
石原は鹿児島県鹿屋市串良町の柳谷(やねだん)集落が昨年一月に迎えた芸術家の第一号。京都の高校を卒業後、全国を旅しながら絵を描いてきた。独学ながら、国内外の公募選で入選している。
石川県小松市を拠点にしていた二〇〇六年秋、鹿児島市の知人を訪ね、桜島を描いていた。大隅半島に芸術家を受け入れてくれる集落あると聞き、興味を持った。
「地域の文化向上に寄与してほしい」。やねだんの歓迎式で親善大使の認定状を手渡された。それも立派な額縁入り。集落挙げての出迎えに面食らった。
石原の作品は、ほとんどに巨大な目玉が描かれている。むき出しの目玉が歩いている奇抜なものもある。集落のお年寄りは最初、ぎょっとしたようだ。
婦人会の徳田まり子(六三)は、お化け屋敷にある絵を連想した。石原とようやく打ち解けたのは、似顔絵を描いてもらってから。徳田がずっと気にしていた小さな目を、かなり大きめに描いてくれた。しかも、とびきりかわいらしく。
石原たちを招く以前、やねだんには、家主が亡くなるなどした空き家が一五軒を数えていた。廃屋に見知らぬ人が住み着く事件もあった。何か手を打たなければならなかった。
所有者の了解を得て、住民二十人ほどが痛んだ空き家を修繕した。まだ使えそうな冷蔵庫などの家財を磨き上げ、庭を覆う草を刈った。空き家に芸術家が住めば集落がにぎわい、やねだんの魅力を発信してくれるだろう。インターネットなどで入居者を募った。
画家のほか陶芸家、写真家、ガラス作家がやって来た。現在、芸術家六人が、やねだんで活動している。
息を吹き返した空き家は「迎賓館」と呼ばれている。芸術家たちの住まいとアトリエ、ギャラリーも兼ねる。六号館まであるうち、石原が住む一号館は元音楽教師の家だった。古い美術書や画集がそのまま置いてあるのが、気に入っている。
公民館の隣にある「ギャラリーやねだん」は、長くシャッターを閉じていた元食料品店だ。芸術家たちが売り場を改装し、作業台や陳列棚も作った。学校帰りの子どもたちが画用紙に向かい、ろくろを回す。
畑帰りのお年寄りが一息つく場所にもなっている。口にしないが、「芸術家は食えない」と気の毒がっている節がある。いつも泥付きのダイコンやハクサイを置いていってくれる。
いつまでもお客さんではいけない。芸術家たちは町内会費を免除された町内会準会員。その代わり、ギャラリーでの売り上げの一割を集落に納める契約だ。最近、やねだんの活発な地域おこしを視察に訪れる団体が増えてきた。作品の売り上げを伸ばすチャンスである。
絵はがき、絵皿、陶器のぐいのみ。ギャラリーの店頭で、石原たちの作品を入れた「福袋」を販売している。一袋三千円。やねだんの名物土産となりつつある。
「五千円分の品物が入ってますよ!」。口下手な石原のセールストークが板についてきた。(敬称略)
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西日本新聞 2008年4月17日 掲載分
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村久木孝志さん(左)は
中尾ミエさん(右)
から梅干を分けてもらっていた
3月27日 |
食卓に梅干の瓶がある。陶芸家の村久木孝志(56)は、起きがけに1粒つまんだ。近所の中尾ミエ(83)が漬けた梅干だ。強い酸味の後を、ほのかな甘みが追いかけてくる。いつもと変わらない味がした。
村久木は昨年、鹿児島県鹿屋市串良町の柳谷(やねだん)集落に創作の拠点を移した。ご飯にも焼酎にも合う中尾の梅干しに朝晩お世話になってきた。瓶の残りが寂しくなると、世間話を口実に彼女の家を訪ねた。
中尾は7日、急逝した。村久木は個展の準備で上京していた。9日の葬儀。やねだんの写真家、河野セイイチ(39)は、最近まで元気にしていた中尾を撮った笑顔の1枚を遺族に手渡した。画家の石原啓行(36)と大窪顕子(25)は、ひつぎの安らかな顔を描き残した。
村久木は最後の別れができなかった。3月末にもらった梅干しは残り10粒ほど。「なくなれば、また取りにおいでなさいよー」。人懐っこい声が耳に残る。
村久木は鹿児島市出身。薩摩焼の窯元から、山口県萩市や石川県能美し、海外も点々としてきた。その土地の土で器を作るのが流儀だ。やねだんでは、桜島のシラスと格闘している。水が漏れやすい難点を克服すれば、薄くて堅い、味のある焼酎カップができる。
昨秋、東京・中野で開いた個展。村久木は来場者に、鹿児島から持参したキビナゴや芋焼酎を振舞った。展示していた器に料理を盛り付けた。東京の愛好家に、ふるさと鹿児島の魅力を知ってもらう趣向だった。
酔いが回ると村久木は、やねだんの自慢話をした。独自のブランドの焼酎があり、空き家に芸術家を招くなどの地域おこしに取り組んでいること。集落ではお年寄りたちとも交流があり、梅干しとラッキョウには事欠かないこと。勤め帰りに立ち寄った岡田恵理子(38)は、話にじっと耳を傾けていた それから4ヵ月後の3月。岡田は会社を辞め、やねだんを訪れた。東京生まれの東京育ち。九州に足を踏み入れるのも初めてだった。
岡田は約10日間の滞在中、ギャラリーやねだんの工房で土をこねて過ごした。朝夕は集落の畑や牛小屋を見て回り、お年寄りの世間話に付き合った
15歳上の姉の影響で、幼い頃から編み物を続けてきた。英国の片田舎に伝わる本場のデザインを記録するのが夢だ。現地では、各家庭で母から娘へと伝承されてきた高い技術が途絶えつつあるという。会社を辞めたのも、英国への渡航準備のためだった。村久木の話を聞き、日本の田舎も見てみようとやねだんを訪れた。
再開した村久木は、集落のお年寄りが漬けた梅干しを食べさせてくれた。縁側で一緒に話し込んだ中尾の梅干し、その近状で子牛を飼っている樋口節(78)の梅干しは、色も形も違った。それぞれに個性がある家庭の味や伝統も、誰かが伝えなければやがて消えてゆく、とあらためて教えられた。 東京に戻った岡田は、英語教室に通い始めた。電話で中尾の死を知り、梅干しの味を思い出した。 16日、村久木は、中尾宅を訪ねてみた。裏庭では、朝からの雨に濡れて、青梅がたわわに実っていた。
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西日本新聞 4月18日 掲載分

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しわの数と深さが印象的な顔写真が、ずらりと並んでいる。鹿児島県鹿屋市串良町の柳谷(やねだん)集落。古い農機具などを展示した「お宝歴史館」の一角に「柳谷の歴史人たち」と名付けたコーナーがある。
今も歌い継がれる町民歌を作詞した福岡政治、花いっぱい運動と竹ほうき作りに励んだ横川司。集落再生に尽くした故人の功績が写真に添えられている。手弁当で歴史館や隣の集落センターを建てた現役世代の吉留政夫(78)も名を連ねる。
午前6時半、朝の集落放送が始まる。畑に出る準備をしてスピーカーの前に立つのが吉留の習慣だ。
行政からの連絡や集落の行事を伝えるため20年前から続いている。3月半ば、高校を卒業する5人の進路が紹介された。3月末には、2軒隣の柳谷近繁が85歳でなくなった事が伝えられた。放送の声には先達への敬意がこもり、吉留は柳谷の顔を思い浮かべた。うれしいことも悲しいことも、やねだんの人たちは放送を通して共有している。
母の日、父の日、敬老の日は特別メニューの放送がある。ふるさとを離れて暮らす人たちが肉親らに手紙を寄せ、それを高校生が読み上げるのだ。
2年前の母の日、有留フキ(71)は耳を疑った。「フキちゃん」。スピーカーから流れる高校生の声が、そう呼び掛けた。東京で臨床検査技師として働く娘の木田京美(44)からの手紙だった。普段でさえ、娘が手紙をくれることはなかった。「姉のような、友人のような、ときに菩薩様のような。本当に偉大な人です。あなたは」。京美は感謝の気持ちをそう表し、フキの苦労を振り返っていた。
フキは1975年、寝たきりになった義母の介護のため、一家4人で京都からやねだんに移り住んだ。見知らぬ土地、終わりのない介護、微妙な年頃の娘たち。80年、今度は夫が肺結核で倒れた。昼は往復2時間かけて夫の入院する病院へ通い、家に帰ると義母の世話をした。娘たちには疲れた顔を見せまいと努めた。
しかし京美は、フキの背中を見つめていた。「強くこぶしを握りしめ、その小さな体でじっと耐え、私たちが波にのまれ翻弄されるのを守ってくれました。」フキはスピーカーから流れ出した「ふるさと」の曲を聴きながら、何度も涙をぬぐった。
京美が東京で長男を出産したとき、フキは嫁ぎ先を気遣って上京しなかった。送られてきたビデオは見たが、初孫に実際に触れたのは、1歳の誕生日を過ぎてからだった。
その孫、木田将海(8つ)がこの春休み、1人でやねだんに遊びに来た。京美は「1人で行きたがってたから」と電話で言ったが、将海は忙しくて帰れない母の思いを背負っていた。「ばあちゃん、ばあちゃん」と将海はフキについて回った。小川に魚を追い、あぜ道でツクシを取った。陶芸家の指導で陶器作りもした。東京にいるけど、やねだんの子だ。遊び疲れて眠る将海を見て、フキは思った。
五日間過ごした将海。「夏休みも来るよ」と言い残して東京に戻った。
フキの家の庭には、将海が遊んだサッカーボールが転がったままになっている。庭木の緑が日増しに鮮やかになるように思えて、フキはうれしくなる。
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西日本新聞 2008年4月19日 掲載分
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菜の花の咲く道を元気に通学する
やねだん集落の子どもたち。
学校まで2キロの道のりも遠くない! |

春は牧草の刈り取りの季節。
ロール状に丸められ、陽光をいっぱいに吸収する。 |

牛に草をやる子どもたち。
畜産が盛んなやねだんでは小さいころから
動物に接することが多い。 |
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鹿児島県鹿屋市串良町の柳谷(地元の呼び方で『やねだん』)集落の春は現在進行形だ。新しい学年に慣れてきた子供たち。学校帰りに寄り道する牛舎には子牛の鳴き声が響く。牧草の刈り取りもピークを迎えた。もうすぐ住民総出のサツマイモの植え付けも始まる。やねだんの元気の理由と課題を、福岡市のシンクタンク「よかネット」研究員・雪丸久徳さん(29)に聞いた。
― 過疎の一集落、やねだんが再生した要因は?
「使い道が限定される行政の補助金ではなく、特産品の販売などで自主財産を生み出したことが大きい。自分たちのお金を有効活用しよう、という意識が広がり、地域にあった産業基盤の整備や福祉の充実につながった。日々の仕事や生活の質の向上を実感できれば、創意工夫への意欲が増す。こうしたリサイクルがうまく機能したことが要因だ。」 ― 地域再生を目指す人や地域は、やねだんから何を学び取れるか。
「『儲かる地域』を目指すことの大切さだ。経済の環境が厳しさを増す今、自分の時間を地域活動に割く負担感は大きい。だが地域活動が現金収入など具体的な形になれば、暮らしを豊かにしたいという動機づけになる。もう一つは総出の意識。集落全員の利害が同じにならなければ、大切に練った地域活性化策でも尻すぼみになる」
― 再生は、豊重哲郎公民館長のリーダーシップに負うところが大きい。
「当初は非協力的な人もいたと聞くが、取り組みを継続させ『地域を第一に考える人だ』と理解の輪が広がった。今後の大仕事は後継者だろう。経験と知識を積み、計画の立案力を持つ時期リーダーが求められている。」
― やねだんが発展し続けるための課題は?
「回り始めたヒト、モノ、カネ、サービスの循環を維持し、発展させていくことだ。田舎暮らしや焼酎ブームはいずれ去ってしまうだろう。時代の流れに合わせて、新たな仕掛けを考えねばならない。都市からの移住者が提供する新たな視点の活用も必要だろう。」
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やねだん特産品は「土着菌」土の中にいる
細菌に米ぬかなどを加え発酵させたもの。
肥料や家畜の餌として、視察団などに販売
する。 住民総出で栽培するサツマイモも土
着菌を利用する。収穫したイモは焼酎メーカ
ーに販売。

醸造した芋焼酎を仕入れ、1升瓶で年間約
3,000本を集落で売っている。土着菌で育て
たヤマイモ入りのみそやスナック菓子、焼肉
のたれなど新商品も次々に開発、ネット販
売もしている。 |
やねだんの2007年度収入は
約560万円。芋焼酎や「土着菌」の販売、
集落が視察団向けに始めたそば店の売上
などが主な収入源。 経費を差引き
繰越金を加えた余剰金は、07年度末で
約438万円。使途が限られている行政からの

補助金と違い、集落で自由に使える。
例年は集落主催の課外授業「寺子屋」や
高齢社宅の緊急警報装置設置など、
教育や福祉に使っている。本年度は高齢者
に貸し出す手押し車の購入などに充てる事に
している。
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やねだんでは減り続けた人口が昨年、増加に転じた。前年の285人から301人に。
Uターン組に加え、全国から芸術家が移住した結果だ。この年だけで4家族14人
(うち小学生以下8人)が移り住み、集落で5年ぶりとなる赤ちゃんも2人誕生した。

だが将来、人口減は避けられない。集落は10年後の人口を280人、高齢化率44%と予想している。
現在、人口に占める20、30代の割合は約2割、60代以上は約4割。
農業従事者が多く、畜産も盛んに行われている。
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西日本新聞 2008年4月19日 掲載分

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ゲートボールの打球音と、お年寄りの歓声が響く。鹿児島県鹿屋市串良町、柳谷(やねだん)集落の公民館前広場。「あんたもせんの?」。自分の番を待つ樋口節(七六)が、畑帰りの福沢五月(七一)を誘う。福沢は「年寄りの新米やっで、まだ早か」とほほ笑み返した。
広場の隣には、集落が迎え入れた美術家たちのギャラリーがある。そこからゲートボールを眺めている青年は、大阪大のスウェーデン人留学生、ジミー・アルム(二四)。この春、やねだんに約一週間滞在した。
母国は福祉先進国。留学前は老人ホームで働いていた。設備は申し分なくても、食事や下の世話をしていると「家に帰りたい」と本音を漏らす高齢者が少なくなかった。「やねだんのいいところは、お年寄りが皆、素顔で暮らしていること」。三島由紀夫の「仮面の告白」に入れ込む青年の瞳には、そう映った。 昨年、やねだんには海外二十カ国を含む計三千五百人が視察に訪れた。
この三月下旬、集落はミニスカートやジーパン姿の男女でにぎわった。鹿児島市の若者異業種交流会の約四十人。昨秋、代表の乗越貴子(二六)の呼び掛けで結成された。乗越は東京で学生時代を過ごした。「好きなまちで仕事を創る」と題した本の出版に携わった。「鹿児島が好きだけど、就職先がない」。地元を去る若者から、何度もそんな言葉を聞いた。地元を愛し、地元でチャレンジをし、地元で働く若者を増やしたかった。
やねだんの住民捻出で完成させた「わくわく運動遊園」。メンバーが視察中、地元の中学生がそこに姿を見せた。園内の噴水の管が詰まったと聞き、修理に駆けつけたという。その場に立ち会えたことが一番の収穫だと、乗越は思った
二年前、やねだんを視察して泣いた市長がいた。福岡県筑後市の桑野照史(六三)。地元区長ら六十五人と一緒だった。「感動という媒体で人の心をまとめる情熱あふれる取り組みに、目指す道を発見した」。桑野は後日したためた礼状に、そう書いた。
午前六時、畜産農家の一日は牛舎の掃除から始まる。吉留カズエ(七七)は、夫の政夫(七六)と牛七頭を育てている。牧草の刈り取りが年々つらくなってきた。輸入飼料は原油高騰で三割近く値上がりした。
三人の娘は結婚して集落を離れ、後継者はいない。年金が夫婦で月約十万円。畜産をやめても食べていける。「孫のお年玉のために飼うようなもん」。牛を二、三頭に減らそうかと話している。
近くの牛舎の軒下に今年もツバメが巣作りを始めた。「ムラの存続は、子どもが帰ってきて子育てをしてくれるかだもんな」。牛百頭を飼う畜産農家、藤崎隆資(六二)はトラクターのハンドルを握る長男隆太(二六)に視線を送った。
隆太は三年前、やねだんに戻った。高校時代は何もない所だと思っていたが、国道沿いに大型店ができ便利になった。活気づく集落の空気を肌で感じる。
長老格のお年寄りから「お前がおれば、未来のやねだんは明るい」と声を掛けられるが、「僕なんて、まだまだ」と頭をかく。結婚、子育て。それが実現して初めて、やねだんの将来を語れるような気がする。
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